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SPECIAL INTERVIEW

[ベーシスト]堀井 慶一さん

これからのミュージシャンは
技術以外の部分もさらに求められる時代

普段耳にするJ-POPアーティストのライブやレコーディングに欠かせない存在、それがセッションプレイヤーです。
ベーシストとして幅広いアーティストを支えている堀井慶一さんもそのひとり。
koyoで過ごした学生時代を「本当に大きな経験になった」と話してくださいました。

koyoで初めて受けたアンサンブルの授業は
今も役立つ大きな経験になりました

まず、音楽との出会いについて教えてください。

うちはいわゆる音楽一家で、父はチェロ、母はギターやヴィオラ、兄貴はドラム、姉貴はクラシックの声楽をやっていました。あと、クリスチャンの家庭だったので、毎週日曜日には家族で教会へ行っていたんです。そこでゴスペルの曲がフルバンドで演奏されていて、子どもの頃からそういうものに接していたことの影響は大きかったですね。もともとゴスペルは黒人霊歌から始まったものだけでなく、もっとロックやポップス寄りのスタイルもあって、日本の教会はそちらの系統が多いんです。だから本当にバンドのライブみたいな感じでした。

では、自分から音楽にのめり込んでいったのはいつ頃からですか?

今お話ししたような家庭環境の中で、僕も8歳の頃からベースを弾いていたんですけど、あるとき兄貴にVHSのビデオテープを2本渡されて、どちらか選べって言われたんです。それがカシオペアとT-SQUAREで、結局両方とも好きになったんですけど、最初は、より歌ものっぽく感じたT-SQUAREにハマりました。小学4年生~5年生くらいの頃はT-SQUAREばかり聴いて、須藤 満さんのプレイをひたすらコピーしていましたね。鏡を置いてフォームを研究したり……自分ではそれを練習とも思わず、おもちゃで遊ぶような感覚で楽しんでやっていた覚えがあります。

プロフィールによると、高校1年生のときにアーティストのライブサポートを経験したそうですね。

実家は北海道なんですけど、兄貴が札幌のジャズシーンで結構叩いていた関係で、僕もセッションに参加したり、ライブをやらせてもらったりしました。そんな中、あるアーティストが東京からライブをしに来るときにメンバーを札幌で集めることになって、当時の先輩方からオーディションに誘ってもらい、合格して出演することになったんです。その他にもいろんなライブやレコーディングを経験するうちに、音楽の道に進むのが自分の中でものすごく自然なことになっていました。逆に、違う仕事をして大人になっていく自分を全く想像できなかった。ミュージシャン以外は考えられないという心境でしたね。

そんな堀井さんがkoyoに入った経緯は?

高校を卒業するタイミングで、音楽を仕事にするならしっかり学ばなきゃいけないと思ったんですけど、札幌にはそういう学校がなかったんです。そこでkoyoを選んだのは、バークリー音楽大学へ行きたかったから。プロのミュージシャンを目指す上でバークリーという名前はとても大きくて、一般企業に就職する人にとっての「東大卒業」みたいなイメージがありました。それで、17歳のときに自分でバークリーの奨学金試験を受けて合格したんですけど、当時はそれでも経済的に難しかったので入学を辞退したんです。あと、そのテストで自分に基礎が足りないことを痛感したので、日本で基礎を固めてからバークリーに行った方がいいという思いもあって、まずはバークリーと提携しているkoyoで2年間学ぶことにしました。

koyoに入学して、どんな手応えがありましたか?

最初のレベルチェックで、先生方の前で初めて演奏したときのことは忘れられません。バークリーの奨学金試験に合格したことがあると伝えてあったので、レベルチェックの順番は僕が一番最後で、先生方も「おお、来たか」みたいな感じで待ち構えていました。僕も若かったので、ちょっと生意気な空気を出しながら課題曲と自由曲を一通り演奏した後、初見で1曲弾くことになって、「君ならこのくらいでしょう」と楽譜集の最後の方の難しい曲を指定されたんです。でも、僕は初見が苦手だったので全然弾けなくて、少しレベルを下げてまた1曲、もう少し下げて1曲……とやっているうちに、一番最初のページまで戻ってしまって、それでも弾けなかった。先生方からも「期待していたのに残念だ」みたいなことを言われて、本当に心がボキッと折れたんです。でも、そのとき先生が「心を入れ替えて1から始めるべきだ」と言ってくださって。koyoでの学生生活はそんなふうに始まりました。

実際にkoyoの授業を受けてみて、いかがでしたか?

レベルに合わせてグループ分けされるアンサンブルの授業があるんですけど、最初に入ったのが初心者のグループで、先生から「君がリードして進めていきなさい」と言われたんです。バークリーの練習メソッドを使って、ドラムはこう、ギターはこう、と各パートに指示を出して、アンサンブルをまとめ上げていく。その授業は僕にとって、本当に大きな経験になりました。メンバーからもすごく感謝されたし、僕もそこに参加できたことを感謝しています。メンタル面も含めた総合的な意味で、みんなに良い演奏をしてもらうにはどうすればいいか。その授業で学んだことは、僕が今バンドマスターを担当させていただくときにも役立っています。

過去の演奏に満足できない
そう思える自分に安心しました

卒業後は、どのようにプロへの道を進んでいったのですか?

最初はバークリーへ行くつもりでkoyoに入学しましたが、そもそも仕事として音楽をやっていきたいという目標が先にあって、それには東京へ出るしかないだろうと。それに、学校で仲間と一緒に頑張ってレベルアップしていくという経験は、koyoで過ごした濃密な2年間でけっこう満たされたと感じていて、それをアメリカでもう一度やるよりは、東京で自分がどこまでやれるのかという腕試しをしたかった。ということで、在学中に知り合ったドラムの神田リョウ君と一緒に上京しました。最初の2年間は2人でルームシェアして、いろんなセッションに顔を出していましたね。これは学生もプロも同じですけど、音楽をやっていく上で、どういう仲間を作るかということがすごく大事だと思うんです。それで、強者たちが集まるジャムセッションに行って、当時はLINEもInstagramもなかったので、自分で作った名刺を配りまくって、音楽関係の繋がりを少しずつ広げていきました。

アメリカで暮らした時期もあるそうですね。

22、23歳くらいのときに、アメリカ南部のゴスペルグループが日本でツアーをするという話があって、ベーシストだけがいないという状況で僕にお誘いがあったんです。大きな経験になると思ったので、入っていたバイトを全部キャンセルして1~2ヶ月くらいツアーに参加しました。そのときに知り合ったピアニストの家に住ませてもらう形で、現地の教会で演奏したり、レコーディングに参加したりしながら1年半くらいアメリカ南部で暮らしたんです。その頃は、ハワイで教会音楽を学べる大学にも3ヶ月ほど行ったり、ちょっと日本に戻ってお金を貯めたりと、行ったり来たりしていました。

その時期に経験したことで、特に印象に残っているのは?

さっき初見が苦手だったという話をしましたが、聴いたものはすぐ覚えて弾けるタイプなんです。向こうのゴスペルミュージシャンは基本的に譜面を使わないので、自分のそういう資質がとても役に立ちました。最初はメンバーの演奏を聴いてコード譜を書いていたら「そんなの必要ない。俺が弾くのを聴いて覚えろ」って。そういうやり方に僕がついていけたので、みんな驚いていましたね。あるゴスペルクワイアチームのレコーディングに参加したときは、そのプロデュースをしていたヘンリー・パニオン三世(スティーヴィー・ワンダーのプロデュースなどで有名)から、彼が音楽の教授をしている大学の奨学金のお誘いもいただきました。ありがたいお話でしたが、先ほども話したようにkoyoを卒業したときから早くプロミュージシャンとしての活動を軌道に乗せたいと思っていたので、いろいろ考えた末に辞退しました。

そして日本に帰って来られて、20代後半からセッションベーシストとして本格的に活動されるようになりました。

一つ一つの出会いがどれだけ広がるのかというのは、自分でも予想できないところがありますが、一番大きな転機は、神田リョウ君の誘いでオーディションを受けて参加したBoAさんのツアー(2014年)です。そこから本当にどんどん広がっていきました。そのときの印象は、とにかく一生懸命すぎて正直あまり覚えていません。30歳を過ぎたあたりから少しずつ余裕が出てきて、仕事をさせてもらえるときに自分で楽しいと思えるようになったのは本当に最近のことです。

2021年にソロ作品「Red」を配信リリースされましたが、そういうものを作ろうと思ったのは、ある程度いろいろなことを経験してきたからでしょうか?

仕事でいろんなジャンルの音楽をやっている中で、自分が本当に好きなサウンドは何なのか、自分は何を大切にしているのか、それを一度形にしてみたくなったんです。それと、ちょうどコロナ禍が始まった時期が重なって仕事がごっそりなくなってしまい、それで生まれた時間を有意義に使いたいと思って、自分の作品を作ることにしました。改めて聴いてみると「今だったらこう弾くのに」っていうところもあるんですけど、そう思える自分に安心しています。あれで満足だと思ったら、前に進んでいないということですからね。

では今後、ミュージシャンとして目指すものや夢などはありますか?

ようやく普通にコンサートを行える状況になって、仕事も戻ってきたので、次のステップを考えられるのはもう少し先のことかなと思っています。ただ最近は、プログラミングとかAIのクオリティがものすごく上がっているじゃないですか。その中で、自分がベーシストとして、ミュージシャンとしてどういうふうにやっていくかということは、すごく考えます。レコーディングでもライブでも、打ち込みじゃなくてわざわざ自分が呼んでもらえる意味は何だろうと。20代前半の頃は、たまたまスケジュールが空いていたからという理由で呼ばれた仕事もあったかもしれませんが、今は「慶一に弾いてほしいから」というように、呼ばれ方が全く違います。そのことをありがたいと思うし、今レッスンしている若い子たちにも、「もっと人間臭いミュージシャンになってくれ」と、ずっと言っています。

演奏が上手いだけではやっていけない時代ということですね。

そうなんですよ。僕も、呼んでもらえたからには現場を楽しい雰囲気にしたいと思うし、ライブを観に来てくださるお客さんが「今日は良かった、楽しかった」と思えるようにするには、技術だけじゃないものが今後もっと必要になってくる。僕はそう思っています。

Koyo卒業後渡米、Stevie WonderのプロデューサーのHenry PanionⅢに出会い、ゴスペルライブとレコーディングにアジア人初の参加、絶賛される。帰国後は、Super Junior、Nissy(西島隆弘)といったドーム/アリーナクラスのライブをバンドメンバーとして参加。他にも、久保田利伸、清水翔太、Nichkhun(from 2pm)、BoA、山崎育三郎といった有名アーティストのサポートを数多くこなす。

Nissy Entertainment 4th LIVE 〜DOME TOUR~

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